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May 29 有漏の種子・無漏の種子有漏の種子は人間にとって本来あるものか、教えを聞くことのよって人間存在の根底に新たに発生するものかという問題をめぐって、唯識派の学者達の間に見解の相違があったことが、『成唯識論』(第二巻)に紹介されている。一部の学者(護月)は、有漏の種子も無漏の種子も生得的なもので、それが経験によって成熟するのだと主張する。衆生のうちには涅槃する者も涅槃の境地に至りえない者もあるが、後者は、彼らの考えによれば、無漏の種子を欠いているのである。これに対して、他の者(難陀・勝軍)は、すべての種子は認識・経験の余力によって新たに発生するという見解とする。ただ経験は無始の時から積み重ねられているので、種子は無限の過去から存在しているのである。この両説を紹介したのち、ダルマパーラ自身は、人間に本来そなわっている種子と、新たに発生す種子があると述べる。現勢的な識とアーラヤ識とは交互因果の関係にあると説く『大乗アビダルマ経』 や唯識派の論書は、種子がつねに新たに発生するという考え方を示している。しかしながら、もし種子はすべて新たに発生するならば、無漏の種子は原因なしに発生することになる。アーラヤ識を根拠とする人間にとって、すべての認識・経験は有漏だからである。したがって、無漏の種子は人間に本来そなわっていると考えられなければならない。教えを聞き、瑜伽行を実修することによって、この生得的な無漏の種子が成熟させられるのである。ただ人間に本来そなわっている無漏の種子は微細であって、それがあるとは理解しがたいので、教えを聞くことによって無漏の種子が生ずると説かれる、というのがダルマパーラの見解である。 ダルマパーラは無漏の種子があらゆる人に生得的にそなわっているとは考えない。仏と同じく真理を悟った者となるか、声聞・独覚と成るか、あるいは全く涅槃することができないかという衆生における差別は、無漏の種子の有無によると彼は説明している。無漏の種子をもたないものは涅槃に至ることはできない。二乗の無漏の種子をもつ者は声聞または独覚となり、仏の無漏の種子をもつ者は如来となることができるのである。このような見解をとるダルマパーラは、心の本性は清浄であって、煩悩はただ偶然的に心の付着した外的要素に過ぎないという大衆部の学説を受け入れることをこばんでいる。心の本性が空・真如であるならば、それは不変異であり永遠であるから、瞬間ごとに生ずる心の原因とはなりえない。また、それが心そのものであるとすれば、心は基本的同一性を保ちつつ瞬間ごとにその様相を変えるということになるから、サーンキヤ学説における「変化」の概念を心にあてはめることになるのであろう、と彼は言うのである。 しかしダルマパ^ラのこの説明は、宗教的転換の倫理を平板な同一性論理に置き換えてしまったように思われる。アーラヤ識が無限の過去から継起して、輪廻的存在の根拠をなしているということは、現在における宗教的主体の自覚内容として解釈されるべきことを先に述べた。煩悩から離脱しょうと努める者にとって、煩悩は本来清浄な心の鏡面に偶然的に付着した塵のようなものではない。宗教的実践の主体は、煩悩を否定しょうとすればするほど、それがきわめて執拗な、それ自体の根拠をもったものとして主体にからみついていることを知る。そして自らを、涅槃の可能性を寸分ももたない生来の凡夫として自覚するのである。超世間的知識を得る可能性として無漏の種子が、人間に生得的のものであるか、または新たに生ずるものであるかという問題も、同様の観点から理解してよいであろう。法界から流れ出た教えは、涅槃を希求する宗教的主体に、全く異質のものとして及ぶことによって、すなわち、自己と客体的存在への執着に対して両者の非実在を、世間的・日常的な認識・経験に対して超世間性を、煩悩に対して涅槃を対峙させることによって、人間の輪廻的存在としての性格を明確化する。厳しく自らを省察するものにとって、自分は煩悩をもった存在であるが、同時に清浄な涅槃界に至る可能性をもいくぶんかは具えているという意識はありえない。瞬間ごとに現勢化する有漏の種子とともに、無漏の種子が人間存在の根底に本来そなわっているということは、自ら煩悩を超克しょうとする主体としては肯定することができない。教えに随順しょうとする意志は、教えを自らの所有にしょうとする煩悩によって妨げられる。そして、この根深い煩悩の自覚は、自らを涅槃界に到達する可能性を全く持たないものとする絶望へと連なるのである。 仏教の教えすら思惟の対象とされている限り「仮構されたもの」である。その仮構を否定する能力は、アーラヤ識を根拠とする人間に内在するのではない。アーラヤ識自体が仮構の潜勢力を宿しているからである。仮構の否定は、教えとして人間存在の根底に及んでいる真如そのものによって、「自己」が無化されること、「自己」が法界に融化することにほかならない。それが根拠の転換の体験であり、個体における法界の現成である。 根拠の転換の体験によって、アーラヤ識を根拠として成り立っていた輪廻的存在としての自己は真には存在しなかったことが知られ、心は本来清浄であってことが理解される。有漏の種子と無漏の種子とが無限の過去から共存していたのではなく、法界に融化して二元性を離れた超世間的知識を得ない限りは、自己は生来の凡夫であり、根拠の転換を体験した時には、自己は本来清浄なものとして自覚されるのである。
仏教の思想 認識と超越 <唯識> 角川文庫
May 28 法界の開示自己が法界に同化したとき、もはや自己と他者に区別はない。存在するすべてのものは個別的に独自の存在性をもっているのではなく、法界の自己限定としての個体なのであり、それゆえに自己と本質的に同一であることがそのときに洞察される。菩薩行はこの真理の洞察に基礎づけられている。声聞・独覚となる可能性をもつか、如来となる可能性をもつか、あるいは涅槃の境地に至りえぬ者であるかという衆生の差別は、自我意識に伴われた悟性的思惟にとってのみあるもので、北海におけるあらゆる存在ものの根源的同一性の中にその差別は解消する。そして、あらゆる衆生において本来清浄な法界――仏性を見ることによって菩薩行は成り立つのである。この点を特に明らかにしたのが如来蔵思想であった。それは如来の法身の遍満性を強調し、法身があらゆる衆生に及んでいること、法身――真如に滲透された衆生は、煩悩に汚されていても、可能態における如来として本質的に清浄であることを明らかにする思想である。根拠の転換によって現成する法界の描写において、唯識思想は如来蔵思想と深い関連をもっていることが知られるのである。 瑜伽行の実践が人を根拠の転換導き、法界が彼において現成したとき、あたかも宝篋が開かれたように彼の仏性は開顕する。彼は仏の法身を得て、仏智をそなえ、仏としての活動にたずさわる。「三種の存在形態」論を解釈する際に、「他に依存する存在形態」がありのままの相状において見られるのは、現象的存在の空を自覚することによってであることを明らかにした。仏の活動は現実の世界にかかわりながら、現実の世界の空を徹見している。それは現実世界のさまざまに変化する事象のすべてを包みながら、それ自体として変異しない虚空に比せられる。仏は死の中にありながら、本質的に涅槃界にあるのである。すでに清められるべき汚れがあるのでもなく。他者に対する自己があるのでもないから、仏の活動は全く自然である。天界の楽の音が美しく響き、摩尼宝珠が燦然たる光を放つのに、だれの意志的努力をも必要としないのと同然である。このような自然な活動を通して、仏は時間的・空間的な制約を超え、虚空のようにあらゆるところに至る。 そのことはすべての衆生が仏に滲透されていること。仏性を持っていることを意味する。 しかしながら、あらゆるひとがそのことを自覚しているわけではない。壊れた容器には水を満たすことができないので、その中に月影が宿らないように、煩悩によって汚された衆生の心には仏の像は映らないのである。
仏教の思想 認識と超越 <唯識> 角川文庫 May 27 超世間的知識の発生人間存在の根底にはつねにアーラヤ識があり、その流れは一生の間途絶えることがないばかりではなく、未来の生存まで続いていく。アーラヤ識が継起して流れをなしている限り、客体的存在と自己とを実在であるかのように仮構する。「二種の執着」の潜勢力と、業の潜勢力とは、絶えずその中に種子として存在している。その潜勢力は「識の変化」によって現勢化して煩悩の世界を現出し、煩悩とそれにもとづく業は、換言すれば現勢的な識は、その余習を現在、未来の生存の根底となるアーラヤ識の中に残す、このようにして人は潜在意識としてのアーラヤ識と現勢的な識と交互関係によって、無限の過去から輪廻を続けちいる。アーラヤ識は輪廻的存在の根拠をなすのである。 アーラヤ識が人間存在の根拠をなし、それを根拠とするゆえに人間が輪廻に引き込まれるとすれば、輪廻的存在からの超越はどうして可能であろうか、夢が目覚めたときのように、自己も客体的存在も識が描き出した幻すぎないと理解するのは、二元性を離れた超世間的知識であるが、その知識はどこから生じてくるのが。 超世間的知識の発生を促すのは瑜伽行である。瑜伽行は「根源的思惟」をその本質とするが、それは自我意識に伴われた思惟とは異なって、教えを聞くことにその端緒をもつ。 「究極的な真理」に対する「一般的な真理」が「三種の存在形態」論によって説明される際に、(角川文庫仏教の思想4認識と超越181~182参照)本質的には語のあらわしえない真理を、真如・法界その他の語で表現する教えは、「完成されたもの」と考えられていた。それは教えが現象的にあらわし出された真如そのものであり、その根拠を法界においているからである。教えはアーラヤ識を根拠とする人間存在にとっては全く異質のものである。この教えを聞くころは、識の内部にある対象の発する音を聞く通常の聴覚的認識ではありえない。教えの聴聞は、煩悩の種子すなわち有漏の種子とは質的に異なった無漏(煩悩のない)種子をアーラヤ識の中に置くのである。無漏の種子は、真理の世界――法界から流れ出た聴聞の余習(聞薫習)であるといわれる。(『摂大乗論』所知依分)。 現勢化した煩悩、換言すれば煩悩の心作用と連合した識は、発生した瞬間に消滅するから、煩悩の否定は、それが潜勢態にあるときのみ行なわれるということを、さきにスティラマティの説明に従って述べた。(角川文庫仏教の思想4認識と超越160~161参照)煩悩に対抗するものとして無漏の種子は、アーラヤ識の中に、有漏の種子と共在する。それはあたかも水と乳とが混合しているようなものであるといわている。 瑜伽行はこの無漏の種子を成熟させる。教えを聞くことに続いて「根源的思惟」があり、仏の体験を追体験する段階に至って、二元性を離れた超世間的知識が生じてくるのである。アーラヤ識を自己と思い込む執拗な自我意識はそこにおいて崩壊し、真理の世界そのものが自己の本来の根拠として自覚される。それは宗教的実践にたずさわる主体にとっては、根拠の転換であり、同時にそれは法界が衆生において現成することにほかならない。
仏教の思想 認識と超越 <唯識> 角川文庫
May 26 清く輝く心現実の世界における仏の活動は、「作すべきことを遂行する知」(成所作智)にもとづいて行なわれる。その知識は対象について充分に「観察する知識」(妙観察智)に伴われている。通常の認識は、個々の対象を知覚する五種の認識と、それらについて思惟する意識とによって成り立っていたが、それらが転換し、清浄かしたのである。つねに六識に伴っていた自我意識は、自己と他者との「平等性を理解する知」(平等性智)となる。これら三種の知識が現勢的であるのに対して、その根底には「鏡のような知」(大円鏡智)がある。アーラヤ識が現勢的な識の根拠をなしていたように、仏智はこの「鏡のような知」を根拠にしている。それは空間的な限定を離れて法界をその全体性において知り、また時間的な制約を受けることもなく、つねに輝く知である。それは特定の表象をもつことがなく、それゆえに一時にあらゆる事象を知ることができるといわれる。要するに、それは最高の真実としての空・法性を知る「光り輝く心」なのである。 「光り輝く心」を人間存在の本質とする点において、唯識思想は『般若経』、中観哲学、如来蔵思想の系譜に連なっているが、ヴァスバンドゥ以後の唯識学派における認識論的考察の発展は、新たな視点を生んでいた。ディグナーガは軽量部の影響を受けながら、知識はかならずその内部の対象の形象を持つもので、純粋透明の知識はないということを明らかにした。仏の知識でも、知識である限りは、捉えられる対象とそれを捉える能力とをそれ自体の内部にもっているというのである。それに対してスティラマティは、心は本来水晶のように透明なものであって、その中に捉えられるものと捉えるものという二元性がある限り、それは「仮構されたもの」であるという見解をとった。この見解の相違は、やがて「有形象唯識論」と「無形象唯識論」として、唯識学派における二つの系統を形成する。そして、前者は軽量部と合流して軽量瑜伽派となり、後者は中観派と合流していくのである。
仏教の思想 認識と超越 <唯識> 角川文庫
May 25 三時の教判唯識思想の源流をなす経典に『解深密経』というのがあり、そのなかに「三時の教判」と呼ばれる一節がある。仏教思想における唯識思想の位置づけを簡潔に示したものであり、その要旨はつぎのとおりである。 「仏陀は、はじめ、第一の時期に、鹿野苑で、声聞乗をめざして修行する者のために、四諦の形で教えを説いた。これは、それまでに説かれたことのない、類まれな教えであったか、仏陀の悟りの内容を完全に説き明かしたものではなく、論争の余地を残した。 仏陀は、みかし、第二の時期に、大乗をめざして修行する者のために、あらゆる存在に自性がないということを顕わでない形で説いた。これは、それまでに説かれたことのない類まれな教えであったが、仏陀の悟りの内容を完全に説き明かしたものではなく、論争の余地残した。 仏陀は、いま、第三の時期に、一切乗をめざして修行する者のために、あらゆる存在に自性がないということを、顕わな形で説いた。これは、類いない教えであり、仏陀の悟りの内容を完全に説き明かしたものであり、論争の余地がない」 『国訳一切経』 経集部 これは、唯識思想の成立に至るまでの仏教思想の展開過程を、三つの異なった相に分けながら、それぞれの相を仏陀の生涯の三つの時期に配当することによって、三つの相の価値序列を明らかにしょうとしたものといえよう。そのために、後に説かれたものほど完全ですぐれているという暗黙の前提のもとに、第一の時期に、声聞乗のための四諦の教えが位置づけられ、第二と第三の時期に、それぞれ大乗のためにあらゆる存在(一切法)の無自性を顕わでない形(隠密相)で説く教えと、一切乗のために一切法無自性を顕わな形(顕了相)で説く教えとが位置づけられる。 四諦というのは、仏陀の最初の説法(初転法輪)のテーマとして伝えられるものであり、仏陀の高弟サーリプッタ(舎利弗)が「あらゆる善き教えはすべて四諦のうちに含まれている」と語ったと原始仏典に記されているように、仏陀の教説の根幹をなすものであった。
仏教の思想 認識と超越 <唯識> 角川文庫
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